田原親賢

元凶と揶揄される大友豊後没落のA級戦犯

 

田原親賢(たはら ちかかた)

武蔵田原氏の当主。奈多鑑基の子で、妹は宗麟公の正室である奈多夫人。養子に田原親虎田原親盛。出家後は紹忍。官位は尾張守、近江守、民部大輔。今市城妙見嶽城城主。

大友宗麟公の正妻の兄にあたるため、その側近として重用された。奈多氏から武蔵田原家の田原親資の養子に入り、宗麟公に服従しようとしなかった田原本家の牽制を行う役目を担った。親賢の地位は年々上がっていき、永禄8年(1565年)には加判衆、さらに臼杵鑑速の死後、宗麟公から国政の大部分を預かるようになっていった。こうした親賢の急速な出頭に対し、元来の重臣である立花道雪は檄文をもって指摘し異を唱えたが受け入れられず、大友三老など他の重臣が亡くなっていくにつれ、さらに立場を強化していった。

天正6年(1578)、家中の反対を退けて大友氏の日向遠征軍を指揮し、耳川の戦いで島津軍に大敗。事実上大友一族の凋落はこの一戦から始まり、帰還した親賢は敗戦の責任を追求され、妙見岳に蟄居した。一方、勢力の巻き返しを図る本家の田原親宏の主張で田原本家から奪っていた所領を没収されている。豊薩戦争の際にはある程度は復権していたようで、大友義統公の側近として働いており、天正15年(1587年)の宗麟公の葬儀にも出席している。

文禄2年(1593年)に大友氏が改易された後は、豊後岡城主の中川秀成に仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに先だって旧主大友義統公が毛利氏の手引きで西軍に与して挙兵すると、これに同調して従軍した。しかし、大友軍は石垣原の戦い黒田如水に敗れ降伏。その後、親賢は中川氏に帰参、西軍方の太田一吉と戦って佐賀関の戦いで敗死した。法名は真士院本誉紹忍居士。

最後の最後まで大友氏に対して忠臣だった田原親賢だったが、宗麟公が信仰したキリスト教だけは嫌悪していたらしく、養子の親虎がキリシタンとなったことを知ると妹の奈多夫人のすすめもありこれを廃嫡したほどである。しかし、あくまで宗麟公に対しては忠実で、その所領は大友家中でも随一とされ、当時の宣教師の記録にもその旨の記載がある。

天正9年(1581年)には廃嫡した親虎に代わり宗麟公の子・大友親盛を養嗣子として迎え、家督を譲ったが、田原本家の田原親貫が謀反を起こすとそれの討伐にあたるなど、引き続き大友氏のために尽くした。それでもなおキリスト教への嫌悪は増したらしく、耳川の敗戦はキリシタン信仰によるものとし、キリスト教の施設の破却を宗麟公に主張している。